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福建貿易陶瓷

明時代から清時代にかけて日本に対して禁輸策がとられていたため、台湾やベトナム経由で唐物道具が入ってきました。では、宜興窯や景徳鎮のものはどのような経路で日本に入っていたでしょうか。
そもそも、宜興窯は小さくとも250ccくらいのものが主流で、工夫茶用の小さいものはメインではなく、おそらくは潮州からのスペシャルオーダーとして作られていたと考えられます。よって日本の煎茶で使われていた小さな急須は潮州経由で入ってきたのではないかと思われます。清朝初期は福建潮州からの船の船員が自分たちの工夫茶用に使っていたものがベトナム・ホイアンなどで日本人の目に触れ日本に入ってきた。後期は日本の出島など居住地にいた清人の喫茶の作法を見て、日本人も清国にこれらの道具をオーダーしていたと考えられます。
錫の道具やボーフラも陶瓷の福建、潮州では普通に使われていました。ボーフラは今でもおかゆを炊いたり漢方薬のために使われています。台湾、台南市の民族資料館や福建省の古民家などで展示されています。
また茶杯はよく景徳鎮民窯といわれていますが、日本の煎茶で普通に見られるナズナや白菜、メダカなどは景徳鎮の茶杯ではほとんど伝製品がみられず、疑問でしたがこれらナズナ手など煎茶椀は漳州窯で出土しています。また幾何学紋様や物語染め付けは徳化窯、泉州窯で伝世品が出土しています。

福建省から日本への煎茶道具の流れ



台南市民族博物館での煎茶道具の展示
漳州窯

漳州窯は、以前から呉須手と呼ばれたり、海外では汕頭ウエアなどと呼ばれていたもので、茶杯ではなく、7寸皿あるいは尺皿で有名です。漳州窯と呼ばれているのは,福建省漳州地帯の複合窯跡を指し,一カ所の窯を指すものではありません。この窯祉から同様に抹茶で使われる赤絵香合や交趾香合が出土しています。

また以前から天目茶碗が建陽市水吉窯のもの。唐物棗や珠光青磁が漳州北窯のものであることは知られていました。呉須手の大皿や先に述べた煎茶用の茶杯などは92年平和県の漳州南窯での発掘で明らかになりました。

福建省はおとなり浙江省とオーバーラップして数百からもしかすると千を越える数の窯が存在しました。漳州窯は漳州南窯と,漳州北窯とに大きく分かれ,漳州北窯は近くの龍泉窯との境があまり明確ではなく,オーバーラップしている地域です。漳州北窯は,日本で言う珠光青磁(発色の悪い,緑とも茶色とも付かない抹茶碗)が有名で,その他に,花入れや壺などを作っていました。
 漳州南窯はヨーロッパで汕頭(スワトウ)ウエアとか,日本で呉須手(ごすで),呉須赤絵(ごすあかえ)と呼ばれている,白い化粧土を塗った上に,タンバンで絵付けをしたり,扶養手といわれる呉須(コバルト)で染め付けした大皿などが一般的に知られています。多くは輸出向け量産品ですが、上手と下手のものがあり、貿易取引によって高級品と量産品を使い分けていたようです。量産品呉須手の大皿などは全く同じデザインのものが多く,日本の静嘉堂文庫美術館の図録に載っているものがほとんどすべてであろうと思われます。


漳州南窯の窯祉群


平和県漳州窯博物館
漳州窯煎茶椀


漳州窯出土の煎茶椀

平和窯(漳州窯)
漳州市平和県の山奥五賽窯を中心とした窯群。胎は堅牢,緻密で胎色は白,胎骨は白くなく,気孔が見受けられ厚い。盆,碗,小皿,などが主。胎は荒く,釉色も不純で,高台にくっつきを防ぐための砂を付けた砂高台であることが一番の特徴。青花,五彩,青磁,単色釉など,そのほか赤玉香合や交跡などを生産していました。青花が一番多く生産されました。盆には規格があって,47.5cm,45cm,39cm,34cm,29cm,24cmとなっています。初期は景徳鎮のコピーでしたが,独特の地方色を持ったデザインとなっていったようです。特に扶養手が多く,銘山手などもあります。
平和窯の生産された時代はそう長くなく,明末に突然始まり,清初に衰退するというきわめて短期間の焼き物でした。ただ,規格化され輸出に特化して量産していたため生産量は非常に多く,日本やアジア,ヨーロッパまで伝世品は多く残っています。エジプトあたりでも残片が見つかっています。平和窯は現在徳化窯と違い全く生産されていません。
平和窯は,青花以外にも,いわゆる呉須赤絵といわれる五彩磁器。(タンバンの緑で釉上加彩されたいわゆる赤呉須,青呉須)単釉(藍釉:青餅花,醤釉:柿餅花)などもたくさん焼成されています。

 先ほど述べたように平和窯一体で日本の煎茶碗の標本が大量に発見されたことは注目すべき点です。いわゆるナズナ手とか,白菜手などといわれた「古染め付け茶碗」は従来,景徳鎮天啓期の民窯といわれていましたが,これらの多くが漳州窯と徳化窯のものであったことが最近の福建省の標本調査でかなりはっきりしてきました。逆に景徳鎮の標本には,小さな煎茶碗で下手のものはほとんど発見されていません。旧デビットコレクションなどの小さな碗は,その出来は全く日本の煎茶道具のものとはクォリティが違います。また鶏心底のものや,編み目,波頭紋など幾何学的な煎茶碗は,徳化窯。蛇の目高台,人物,植物など絵画的なものは平和窯で標本が大量に出土しています。
景徳鎮が明末天啓期に焼成したいわゆる古染め付けには向こう付けなどが多く,天啓年紀のある煎茶碗は記憶にありません。成化年製の年紀款の入った本歌の煎茶碗は今は無きデビット博物館などで見るとずっと上手で,とても蛇の目高台で虫食いのあるものなど発見されていません。天啓窯で日本からのオーダーに基づいて日本仕様で作ったのだろうという以外に説明が出来なかったわけです。ところが平和窯の発掘で,ほぼ完璧な古染め付け「なずな手」が発見されました。われわれが,古染め付けと呼んでいたものは,実は福建省で作られたものだったということです。



徳化窯博物館

徳化窯青花
 徳化窯群は,泉州北部にある窯群で,明中期から清朝民国まで盛んに作られていました。日本では,マリア観音に代表される白磁しか焼いていないような印象を持たれている窯ですが,その主体は青花です。しかも,徳化窯は,福建ナンバーワンの規模で,そのクォリティも景徳鎮のものと見分けがつかないものも少なくありません。
また現在もたくさんの窯業者が量産品の焼き物を焼いています。台湾で売られている工夫茶用の茶杯などはほとんど徳化窯で作られています。特徴は三酸化鉄分がほとんど入っていない,いわゆる糯米胎。酸化金甲が多いという特徴があります。清初には乳白色で玉に近い密胎。器の底部に二文字の商号が入っていることが多くあります。画題としては,小兎,秋葉,双魚,火炎などの文様が青花で掻かれています。) 

安渓窯青花
泉州の西北部にあり,碗,盆,小皿,瓶,炉,灯さん,壺,さじなどを作っていたようです。白色か灰白色の胎で,堅め。釉色は,青か青白がかっています。
永春窯青花
 泉州の東北部。碗が主。浅腹で,胎は灰色の硬質。釉は青白。底に乳突があり鶏心底で,施釉していないようです。


徳化窯出土の煎茶椀

建陽市水吉窯


水吉窯ものはら

建窯は岩茶のふるさと,武蝦山の麓にあります。建窯窯跡群も100カ所以上あり,当時の農民たちの副業であったことが想定されます。現在は,福州から高速道路が整備されており,片道5時間ほどで窯跡群につきます。ただし,まったくの草むらの中なのでガイドなしでいけるところではありません。私は,近くの古陶瓷研究家と,建窯博物館の学芸員の案内で窯跡を見学することが出来ました。ものはらも多く残っており,かけらはいたるところに落ちています。(注:残片も文物ですので,海外持ち出しは出来ません。充分注意してください)行ってみてわかったのは,建窯は,通常稲葉天目のような鉄胎ばかりでなく,土胎もかなりのパーセントを占めています。

建窯は,圧倒的に日本人に支持されていています。逆に言えば日本人以外は,本当に単なる日用雑器扱いです。窯跡を訪れるのも日本の学者ばかりだそうです。




建窯の龍窯跡

工夫茶与潮州朱泥壺 汕頭大学出版社
漳州窯 福建人民出版社
呉須赤絵と漳州窯系磁器 愛知県陶磁資料館
茶陶の道 出光美術館
福建陶瓷考古概論 福建省地図出版社
長崎唐人貿易と煎茶道 板橋区立郷土資料館
東洋の染め付け 大阪市立東洋陶磁美術館
呉須赤絵・呉須染付・餅花手 愛知県陶磁資料館
中国古陶瓷研究 13 紫禁城出版社


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