茶壺は総合芸術
 宜興茶壺を「三次元の詩」とか,「立体的な絵画」であるという言い方をすることがあります。単にお茶を入れる道具なのに,どうしてこんなに惹かれるのかというと,やはり美しいからです。茶壺を鑑賞するには,
宜興紫砂というマテリアルの美しさや胴に彫られた刻飾りの書画の美しさなどもありますが,本来の焼き物としての造形美も重要です。
宜興茶壺の造形美について考えて見ましょう。見て美しい茶壺は,使っても使いやすいものです。私は美しい茶壺というのは,バランスの良い茶壺だと思います。どんな有名な作家ものの真作だとしても,バランスの悪い茶壺は美しいと思いませんし,欲しいとも思いません。特に最近の宜興作品は,新しいデザインを追うばかりで,あまり美しいと思うものに出会いません。
 茶壺の造形美は,全体のバランス。把から注ぎ口へかけてのスピード感。胴自体のボディラインなどにあります。

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(1)主要構成要素間のバランス(基本比率)
 
茶壺は本体胴部分,蓋,把,注口の4つから構成されており,この4つ主要構成要素間のバランスがあります。

 茶壺のバランスとは茶壺の中央心に釦の中心が来ていること。さらにはその中心ラインと三平ライン(注ぎ口,本体上部,把上部を結んだ水平ライン)から,正三角形か二等辺三角形を描くように作られているものが基本比率です。これがきれいな三角形になっているほどデザイン上のバランスが良いということになります。これが崩れているデザインは,安定感がなく,見た目に美しさがありません。
さらには,上の写真のように三角形の傾斜角と把や注ぎ口の角度が平行になっているとさらに安定感がでて,美しいといえます。

 じつは,最近の茶壺でこのように美しいものは実にまれです。新しいデザインを追うばかり,結果としてだめなデザインになっているものと,単に技術的にこういう出来になっていないものとの2つがあります。
(2)把と注ぎ口のバランス・スピード感

 注ぎ口のライン@と把のラインAがほぼ平行になっています。これも美しさの基本です。さらにこの茶壺は注ぎ口が上に向かっている為に,把の虚形デザインを下がり気味にすることでバランス観を生み出しています。
写真下では,さらに書のように,把の下部分のラインから一気に筆を走らせたように注ぎ口に向かっています。実に美しいバランスです。これのラインがきれいに出来ていない茶壺は結構多く,把と注ぎ口が勝手な方向を向いていると,茶壺のデザインとしての一体感がなく,品格(神韻)のない下品なものになってしまいます

(写真は曼生壺)
(3)面積のバランス
同様に,注ぎ口と,把の占める面積の割合もほぼ同じ大きさであることが安定感を生みます。たとえば,この写真の茶壺の把だけがもう数割大きかったら,安定感のない妙な茶壺になってしまいます。

2つめの写真は,清朝の名品,背高の茶壺ですが,わかりやすい例です。この茶壺は,本体が背高で細身であるために,把や注ぎ口も縦長のデザインにしてバランスをとっています。この茶壺で注ぎ口だけに左の茶壺のようなものがついていたら,見ていて不安定な感じを受けてしまいます。また,このように本体の背が高いですから,把や注ぎ口にたとえバランス良くちょこっとしたものが付いていたとしても,この茶壺全体のバランスを欠き,独特の躍動感がでません。
(4)虚形の美しさ
写真の黄色いを虚形といいます。
この部分の美しさは,茶壺を鑑賞するうえで重要なポイントです。
本体のデザインを実形というのに対して虚形といいます。
美しい茶壺というものは,本体の美しさに増して,この虚形も美しいものです。
虚形はこの黄色い部分だけでなく,注ぎ口から蓋に向かう部分とかも鑑賞の対象となる虚形が存在します。
本体部分が実形となり,中国絵画と同様,茶壺も実形と虚形のバランスというのが鑑賞する上でのポイントとなります。
 陳傳席先生は,これをさして,絵画が「計白当黒」であるのに対して,茶壺は「計虚当実」であると説明しています。本体の形(実)部分にだけ目が行きがちで,注ぎ口や,把が作り出す空白部分に関してはあまり注意を注がないかもしれませんが,茶壺を見る際にはこの虚と実のバランスを見極めることが大事です。

いくら本体のデザインが良く,力があっても,把がいい加減だったり,把・注ぎ口とのバランスが悪かったりするものは,トータル的には良いデザインの茶壺とはいえません。

中国絵画に見る虚と実留白技法

宋  夏珪 観瀑図*1

明 唐寅 葦渚酔漁図*1
 上の絵は,どちらも有名な絵画ですが,墨をつかわず生地の布をそのまま残してある部分があるのに注目してください。たとえば,上の絵では,手前の松から後ろの山の間の空白の部分です。これは,西洋絵画の透明水彩画が画用紙の白を絵の白の部分として使っているような技法,つまり布の白を使って瀑布の流れや霧霞を表しているだけでもありません。
 この絵の空白の部分(つまり白い布のままの部分)を虚形といいます。一方,松や家,右の絵の葦の部分は実形といいます。この虚形と実形を使って全体の構図をとる技法は中国絵画の基本となるもので,西洋絵画のように写実的に細部まで書き込むことをせず,主テーマとして描きたい部分以外を空白のまま残すことで,逆に鑑賞するものには,ディテールを書き込む以上の無限の広がりを感じさせるという技法です。
台湾の王耀庭先生は,二玄社刊の「中国絵画のみかた」の中でこの虚実について「気勢を表現するためには,構造上の「主と従」「虚と実」に注意しなければならない。

 現実の世界にある景物には本来,主従の別はないのだが,画家が構図を取るとき強調したいものは主,付随的なものは従となる。従って主と従は実は強い相関関係を持っており主がなければ従もなく,従がなければ主もない。」と述べられています。

 中国絵画ではこの空白を残す手法を「留白の手法」といいます。我々は,この空白の部分から頭の中で空白の部分を埋めることにより,リアルに書き込むよりもはるかに多くのものを語るようになります。

*1 二玄社「中国絵画のみかた」より抜粋させていただきました。その他,鐘文出版社「中国銘壺」,書泉出版「中国紫砂芸術」などを参考にさせていただきました。