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茶壺の発展と歴史
宜興茶壺の歴史に関してまとめてみました。2013年にさらに加筆しました。

 紫砂壺とは何でしょうか。一般的には江蘇省宜興市で生産されてきた素焼きの急須を指します。宜興の古壷には「荊渓」あるいは「陽羨」という字句が入っているものがあります。春秋戦国時代は、宜興を「荊渓」と呼んでおり,秦代と漢代では、「陽羨」と呼ばれていました。この陽羨という古称は宜興の「陽羨茶」として聞かれた方もおいでかもしれません。

宋代に「宜興」と呼ばれるようになります。


■明 1368〜(室町・安土桃山)
茶壺以前
 古来,宜興窯周辺は越窯のあった地域に属します。宋代には南方青磁、越窯の孫窯として青磁の生産をおこないます。窯業としての宜興は,磁器を生産している窯であり、今でも青磁は宜興生産品のかなりの部分を占めています。そんななかで紫砂を使った急須など文人趣味あふれる茶道具、文房具が中華文化の中でも唯一無二の地位を占めています。



初期宜興青磁


茶壺の出現
 現在のような紫砂茶壺(しささこ)というものは,明時代の正徳〜嘉靖に出現したことが近年の出土品や、80年代に故顧景舟らによって行われた羊角山の窯祉調査などからほぼ断定できます。出土品から見る黎明期の紫砂は、大ぶりで煉瓦のような焼き上がりのとても世界に名を馳せるようなものとはかけ離れたものです。初期出土品は各地の博物館や文物管理局などに収蔵されていますが、常設展示は少なく図録などで確認するのが一般的です。発掘調査の資料は宜興陶磁博物館に展示されています。初期ながら紫色を呈した資料サンプルなどがすでに見られます。

 この時期に越窯の傍系であった宜興から、稚拙ながらも紫砂壺の特徴を持った素焼きの焼き物がなぜ生まれたのかについてはあまりこれという学説はないようです。



宜興陶瓷博物館


 背景には、宜興が江南文化の中心にあったことですでに文人達のニーズに応えられるものであったこと。これら文人達はお茶を新しい飲み方で楽しんでいたのではということがあげられます。この時代には現在のような炒青法での茶葉が生産され,固形茶から散茶に変わり,煮茶をへて泡茶つまり乾燥した茶葉にお湯を注ぐという現在の飲み方になっていました。当時の文化をささえていた江南の文人達が北京や南京の過度に装飾された官窯テイストではなく、素朴な素焼きの紫砂を、喫するための道具として選んだのではないかと想像されます。紫砂は茶場を直火にかけて煮出すためには土もののほうが適していたことも一因かもしれません。福建あたりの横手のボーフラも漢方薬やおかゆを炊く道具としてすでに普及していましたが、圧倒的に堅牢で煮茶にも耐えられた紫砂が尊ばれたのではないかと思われます。

 宜興茶壺は,その一番の特徴として釉薬をかけないということがあります。中国では一般的に釉薬をかけるものを瓷器。そうでないものを陶器と呼ぶようです。日本の焼き物の区分ではこのような半陶半磁の焼き物を[火石]器(せっき)と呼びますが,中国では陶器ということになっています。もっとも美しいとされる清朝の朱泥では、紫砂の長石分が胎表面でガラス化し透明釉化いています。他の窯が白胎を作るために白釉をかけたり,同じ紫砂胎である南宋官窯が胎を目立たなくするために青磁釉を何度も重ねがけしていたのに対し,高質な白色のカオリンでありながら素焼きで勝負したところに、宜興紫砂本来の土の良さが江南の文人達からアンチ宮廷趣味の意味も込めて評価があったのだろうとおもいます。 なにがしの僧がここの土で素焼きの焼き物を作ったというのは現時点で確証を得られた史実ではないようです。

■明初期茶壺の特徴
初期のものはまだ現在のようなタタラ作りの方法が発明されていないため型出しのものが多く,本体内部が上下に接合されているものも多くあります。一般的には大型です。
胎土は,粗い粒と細かい粒を選別せずに使っていおり,土の中に黒や黄色の大きな粒が入っているのが特徴。これが一部焼成の際にガラス化(半磁器化)しているものもあり,表面にも特徴があります。
この時代は落款が無いものがほとんどです。つまり宜興窯最大の特徴である作家制度はまだ確立されていなかったわけです。




香港茶具博物館


当時お茶を入れるのに一番適しているのは錫。次に陶器という記述が見られますが,少し時代がたつとお茶を入れるものは,宜興が一番であるという評価に集約されてきます。明の後期には茶陶=宜興というブランドが確立されました。
ただし当時の葉茶のクォリティと現在のトップクラスの茶葉とでは品質面で比較にならないほど差があったと思われ、現在の茶葉を入れる道具は、磁器で茶葉本来のクォリティを足しも引きもしないというのが主流で、宜興紫砂はその文人趣味から愛玩されるものへと位置づけが変わっているといえます。現在は宜興の古い茶壺でお茶を入れることが精神面で高く評価されているといえます。
■明初中後期茶壺の特徴
 時大彬(じだいひん)によって,土を板のようにのばし、これをたたいて整形するタタラ作りの技法が発明されます。この技法は現在にいたるまで脈々と続いている宜興窯独特の製法です。 時大彬はまた,「小さい茶壺」というものも最初に手がけました。ただこの「小さい」とは、薬罐大の大きさだったものが、現在主流の250ccクラスになったということで、工夫茶用のミニ急須が出現したわけではありません。 タタラがなぜ宜興で採用されたのかはよくわかっていません。現代台湾作家が宜興泥でろくろ引きの手拉杯を作っているので、ろくろが引けなかったわけではないようです。工夫茶のメッカ潮州渓楓窯は朱泥をろくろ引きで製作しています。逆に明治期、日本の常滑で無錫の文人であった金士恒の指導のもとタタラで製作している例もあるので、宜興紫砂がタタラになったいきさつはよくわかりません。


時大彬



■恵孟臣
 工夫茶用の小さい壺は,明のもう一方の名工「恵孟臣」(けいもうしん)によって確立されたといわれています。工夫茶に関する文献では,「急須は朱泥小振りの孟臣缶でなければならない」という記述があります。このため工夫茶用のミニ茶壺は,別名を孟臣壺と呼ばれ,本人没後も現在に至るまで宜興や,潮州・台湾などで生産されつづけています。
現在孟臣の真品といわれているものは,唯一広州の明代墓から出土した標本ですが、これは当時の宜興のスタンダード250ccクラスの「小さい」サイズで、現時点でミニ急須の孟臣真品はまだ見つかっていません。ミニ茶壺については現時点では日本の天目茶碗のように明確なトレーサビリティを保証された伝世品もないわけですから、これは都市伝説の域を脱していないかもしれません。繰り返しますが、宜興紫砂において、工夫茶用のミニ茶壺は過去も現在もメインストリームではなく、オーダーメイドとして作られたものであると理解してください。ミニ茶壺は潮州や台湾など工夫茶、老人茶の習慣がある地域での例外であるといえます。


恵孟臣 95年安徽省出土



■作家制度
 宜興窯のおおきな特徴に作者の銘が入っているということがあげられます。景徳鎮などは,宮廷に納めるために意匠に関する規定と納品数が定められかつ品質管理は非常に厳格でしたので官窯初期段階から分業体制が敷かれていました当然落款の入れ方も規格通りである必要がありました。宜興の茶壺は土の制作から成形まで一人の陶工が行っており,意匠も作家の裁量に任されていたため銘が入っているようです。また冒頭述べたように早くから文人たちの愛玩の対象となっていたため、他の文房具同様銘を入れて楽しんだということもいえると思います。
 明末の銘は壺の底に釘彫り楷書落款が多くあります。印のものはまだみかけません。また,当時の陶工は文盲の人が多く,文人が書いた名款をなぞって彫っていたため,同じ作家名でも書体がちがうものがあります。書体が違うから偽物というように単純にいえない難しさがあります。

この時期の作品は香港芸術館分館、香港公園内の茶具博物館に展示されています。ただしこれらは持ち主の羅桂祥がサザビーズのオークションで入手したもので、トレーサビリティが保証されておらず、近年大陸で多く出土している紀年のわかる同時期の宜興標本とのきちんとした比較分析が望まれるものです。


(日本)1592年隠元禅師が日本に煎茶を紹介。隠元和尚の茶壺は,今でも京都宇治に近い黄檗山万福寺に納められています。典型的な晩明茶壺です。

■清朝初期から中期
■初期は明末からの継承といえます。
 まだ無款のものもおおいですが、この時期の焼き締め具合、土の良さはほかの時代と全く異なるすばらしさです。




清朝初期


 清朝中期康煕帝が宜興窯を珍重しました。この時期宮廷磁器は琺瑯彩の技術を取り入れ今までとは比較にならない多色の彩色が可能になり宜興胎に宋代の花鳥画が描かれます。これには二つの説があり初期の琺瑯の技術が宜興胎でないとうまくのらなかったという説と、康煕帝が宜興好きでたまたま琺瑯技術採用の時期とあったために宜興胎の琺瑯作品が多くあるという説です。ただ、ほぼ同時期に景徳鎮の琺瑯彩も登場していることから、後者の説ではないかと思われます。現在台北故宮博物院が収蔵する宜興胎琺瑯磁器は40点以上になりますが、素面のものも多く残っています。また北京故宮博物音では、琺瑯以外のほかの技術による宜興胎加彩作品があることから、康煕帝が宜興好きであったのからという説が正しいのではないでしょうか。この時期の絵付けは宜興でなく紫禁城内工房の絵師がつけたといわれていますので、当時民間にはまだ琺瑯加彩のものは流通していなかったようです。








台北故宮博物院


 清宮の宜興胎作品は以前台北故宮博物院で一括展示されたことがあり、どれも清宮の雅を象徴するようで息をのむ美しさがありました。そこには文人趣味という簡素さは一切無く、宜興胎に咲いた牡丹などの花鳥画と間を透明釉で覆った一点の欠陥も無い完璧さで、清宮のインペリアルテイストを象徴する作品群でした。当時の印象は「宜興作品」というよりも文字通り「故宮文物」のひとつというものでした。同時に展示されていた琺瑯彩の景徳鎮白磁胎の茶壺にひけをとらない絢爛さを誇っていました。




北京故宮博物院


■清朝中期(嘉慶〜道光
■陳鴻寿と曼生壺

 このような豪華絢爛の茶壺に対し,当時宜興に官僚として赴任していた陳鴻寿(曼生)がシンプルな文人趣味の茶壺をプロデュースします。曼生18式というデザインパターンとして知られています。このデザインパターンの多くは後生宜興窯の定番として現在まで制作されています。この曼生壺というものがなかったら宜興の今は無かったように思います。陳鴻寿は自ら作陶はせず,茶壺のデザインを手がけ,ほとんどの曼生壺は,楊膨年(楊氏三兄弟)が制作しています。 日本では静嘉堂文庫美術館に作品がひとつあります。私は、以前香港の香港中文大学美術館で多くの作品を見る機会を得ましたが、書・篆刻・画と併せて当時の文人趣味を具現化した茶壺であったというのが感想です。清宮の豪華絢爛さのアンチテーゼとして江南の文人文化を象徴したものでした。






陳鴻寿 文人趣味


■作家秘伝
その後も著名な作家があらわれ宜興は当時からかなり高級な道具であったというのが当時の文献から知られています。茶道具、文房具として宜興の作家ものを使える人はかなり裕福な階層の人たちでした。一般人は、当時から宜興の組成なものや、名も知れぬ窯で作られた宜興を模したものを使っていたようです。日本に伝世している宜興作品も上手と下手でかなり仕上がりが違うのはこういう面があったようです。また先に述べたように宜興は作家責任体制でプライベート工房が主体でしたから、現在までまが残る作家の製作方法というのは必ずしも伝承されておらず、その作家が後継者に技術伝承をしないまま、没してしまうと後生どのようにして作っていたのかもわからない状態になってしまい、今でも形はまねできても、同じものが再現できないという作品が多く見られます。清朝中期から晩期にかけては、特定の作家が一つから数種類の意匠の茶壺を作り続け、あまりたくさんの種類を一人の作家が手がけることは無かったようです。

■潮州工夫茶の出現とミニ茶壺(水平壺)
 清朝中期くらいに潮州を中心に工夫茶の文化が生まれます。お茶をどうすればおいしく飲めるかを追求し工夫茶という泡茶法を確立した潮州文化は、宜興に新たな作品群を登場させます。これが、今宜興として台湾や日本で珍重されている水平壺とよばれるミニ茶壺です。これがなぜか朱泥でしかも一番高級な大紅包とよばれる孟臣銘のはいったものが当時珍重されました。このミニ茶壺実は宜興紫砂茶壺のなかでは異端であり、当時も現在も宜興茶壺デフォルトのサイズは250cc以上の大きさのものです。ではなぜ宜興にミニ茶壺が出現したかといえば、潮州からのオーダであるというのが私の考えです。250cc以上の茶壺で、潮州福建あたりの青茶を入れるのは茶葉の量とお湯のバランスがきわめて難しく、お茶として注ぐまでのタイミングもきわめてとりづらいものです。工夫茶では濃い少量のお茶をたしなむ習慣があったため、茶葉が開いた状態で満杯になりそこにお湯を注ぐとほぼ同じようにお茶がいれられるミニ茶壺に行き着いたのだと思います。潮州あたりで蓋椀が主に使われますが、同サイズのみに茶壺も使われます。使う茶葉の量やお湯のバランスがとりやすいからです。




宜興 清朝期の水平壺



宜興胎の茶壺はミニとはいえかなり高級だったため、工夫茶のニーズを数量的に満たせるものでは無かったこともあり、潮州楓渓窯という窯が起こり、孟臣缶を供給し出します。これが俗に言う汕頭壺です。楓渓窯は地元の土を使うのですが、これが宜興紫砂に比べて鉄分や長石などが少なくまったく煉瓦のような上がりになってしまうので、楓渓窯の茶壺は化粧土がかけられています。また、工夫茶のニーズを満たすためのものであったため意匠にバリエーションはなく、ろくろ引きの水平壺が数種類量産されていたというのが特徴です。
 私はコレクションを始めた頃この楓渓窯の作品を結構持っていたのですが、処分してしまい最近資料的な観点から再収集していますが、当時のような上手のものは手に入りづらくなってしまいました。




楓渓窯


■その他の傍系窯
 この時期、越窯があった上林湖付近には、宜興の作家を招聘して玉成窯という窯がまったく宜興と同テイストの作品を作っています。残念ながらきわめて伝世品が少なく幻の窯になっています。


玉成窯


また清朝後期には、江西自治区に欽州窯という窯が茶道具を作ります。しかもここは一時期地名を宜興にしたことがあり、本家とは関係が無いのに宜興の銘をいれて流通させていました。欽州窯の特徴は胎を磨光して光沢を出しているものがあることです。磨光は、その後タイからのオーダで宜興でも製作されます。現在タイに残っている多くの磨光茶壺は、紫砂胎のものをタイに持ち込み、木賊でなく竹のへらなどを使って数年かけて磨光したものです。


江西欽州窯


おそらくはほかにも多数の傍系窯があったと想像されますが、資料がなくわかっていません。また福建省のおびただしい窯群には紫砂茶壺を作っていたという資料は現時点ではありません。潮州楓渓窯だけです。

■ヨーロッパ輸出向け
中国の窯業は伝統的にオーダーメイドをこなすという伝統があり、景徳鎮などでもタイ王朝向けのベンジャロンと呼ばれる祭器などを作っています。宜興窯も、お茶の輸出とともにヨーロッパでニーズが高まり、宜興は中世ヨーロッパでチャイナレッドと呼ばれ、珍重されていました。当然文人趣味などの素朴な意匠では無く当時のヨーロッパ貴族のティーセットとして、独特の貼花装飾をしたヨーロッパ輸出モデルが製作されます。これらヨーロッパモデルは現在ロンドンのビクトリアアンドアルバート美術館にいくつか展示されています。
これも独特の雰囲気があって、宜興の別の面をよく表すものです。また、景徳鎮同様朱泥のティーポットはヨーロッパでもコピーが作られていますが、土が全く異なり高級感のないぼってりとしたものです。


ヨーロッパ茶壺


 ■清朝末期・粗製濫造
  清朝の腐敗と太平天国の戦乱で官窯同様宜興窯も衰退,世の乱れにリンクするように宜興窯も商業生産に徹し,同一デザインで粗製濫造なものばかりとなります。 特に太平天国では,宜興の人口が数分の一まで減るほどの大打撃を受け一時期宜興窯の火は風前の灯火となります。

■清末 
 清朝末期には配土技術が進歩し,烏泥(黒色)などさまざまな色の土が出現します。 
 光緒時期には紫砂胎で,注ぎ口と蓋が錫の大型壺が出現します。この茶壺は光緒時期のみで後世では全く作られていないようです。また,光緒期の一時には,作家の落款を入れることが法律で禁止され,いわゆる龍款や花款があらわれます。




烏泥 それに錫を巻いたもの


<日本>

 明治11年,(清朝光緒期)無錫の文人 金子恒(きんしこう)が常滑に招聘され,日本にタタラ作りをはじめとした宜興紫砂技術を伝え,生産が開始されます。
また,開始明治時代は「空前の煎茶ブーム」であって,宜興の茶壺が大量に輸入されます。時をあわせて日本でも高価な宜興窯の急須ニーズを満たすため常滑だけでなく,備前や佐渡などでも宜興窯の写しが作られるようになります。常滑の急須が早い段階で独自色を出していくのに対し,備前ものは正確に宜興を写しています。当初常滑も備前も土に酸化鉄(ベンガラ)などを入れないで制作していたため,朱泥の外観を出すため化粧土をかけています。佐渡では金山からでた大量の鉄分を含んだ土を使い早くからろくろ引きで作られました。佐渡で下手のものは孟臣の落款が入るものがあります。
 


初期常滑窯 杉江寿門堂


佐渡 三浦常山


 ■中華民国 1912〜
 ■民国初期
 戦後上海資本により宜興窯は個人作陶工房から企業・会社組織として復興します。当時の特徴として落款に作者と会社の2つの印が入るものが多くあります。たとえば,茶壺の底には鉄画軒製という会社名。蓋裏には,淦成(かんせい)など作家名が入ります。鉄画軒は,以降十数年前まで鉄画軒ブランドの茶壺販売を続けていますから,鉄画軒だから民国というのはまちがいです。お店自体は今でも上海預園にあります。


 デザインは復古調が主で,清朝中期の文人趣味を持ったものをベースとした作品が多く作られます。現在日本で入手できる古壺は,ほとんどこの時期のものです。 この時期の作家ものは清朝末期のものに比べ質が高く胎土もすばらしくデザインも抜群です。




民国 作家もの 



上海の骨董店が宜興から,顧景舟(こけいしゅう)や王寅春(おういんしゅん),蒋蓉(しょうよう)らを招聘し,大量に明清の茶壺のコピーを作らせます。模倣の是非はともかくとして,これらの作業がこれら現在の名工を作り出すオリジンとなったことは事実です。顧景舟も,この時期に明清の名壺に直接ふれられたため,以降の作陶にとってはかりしれないメリットがあったと述べられています。


倣銘遠



  ■中華人民共和国 1949〜
■紫砂壺最復興
 新中国成立後1954年から再び生産を開始。民国からの老作家7人を集め,紫砂生産合作社が設立されます。1958年この合作社が宜興紫砂工芸第一廠となり,積極的に新人作家を育成し,再度復興を果たします。
当時は宜興茶壺ブームなどというものは無かったので,茶壺一つの単価は1元に満たなかったそうで,彼ら作家達の生活はかなり苦しかったようです。民国のころから,宜興では「子供を川に捨てても,急須作家にはするな」といわれていたほどで,今のようにお城のような邸宅に住んでいる現在の作家先生たちからは想像もできないことです。特に,大黒柱である男性は急須作家では家族を養えないため,急須作りは女性の内職仕事と言われていたようです。王寅春など今オークションででるような作家ですが,生涯お金には縁がなかったそうです。


文革壺


早期壺


 文革期に入り状況はますます悪くなったようで,当時の茶壺には作家名を入れず単に「愛国壺」とか 「希灯」,単に番号が入るだけのものを生産しています。その後輸出向けのものを中心に底には「中国宜興」という落款が入るようになります。
 「中国宜興」款は,文革以降80年代まで続き,この中国宜興款の茶壺や最初期の文革壺を最近「早期壺」(そうきこ)と呼びます。作家達の生活に比してこの早期壺は水準が高く土も非常によいものを使っており,きわめて短時間に養壺が可能なため,古壺に次ぐものとしてコレクターや茶人達に注目されています。この時期には,現在の高級工芸美術師などの作家達が作った茶壺もかなりあり,こまめに探せば作家ものを格安で手に入れることが可能。


早期壺 朱可心

早期壺



■個人作家落款の復活

 個人作家名が全く入らなかった茶壺に対し80年のはじめに香港の有名な収集家で宜興茶壺ブームの火付け役「羅桂詳」が,宜興から南京経由で香港に宜興茶壺を仕入れるようになり,そのとき,個人名の復活を宜興に呼びかけ実現したそうです。これをきっかけに,香港を中心に宜興茶壺ブームがわき起こります。宜興茶壺コレクションが一般の人にまで浸透し,サザビーズなどもオークションアイテムに宜興茶壺を追加し出します。このころから宜興茶壺に関する資料や研究書籍が盛んにでるようになります。80年後半中国国家軽工業部が認定した中国工芸美術大師の資格を顧景舟先生が紫砂作家として初めて取得。宜興窯は,何度目かの隆盛期を迎えます。


■台湾作家製茶壺
 台湾はロケーション的に工夫茶の潮州,福建省が近かったこともあり,早い段階で老人茶と呼ばれる喫茶法が普及します。中国大陸からの物が入りにくかった状況もあり,台湾で小型茶壺の生産が開始されます。1947年(民国36年)に許松永が老人茶壺という名で朱泥茶壺の制作を始めたのが最初といわれています。台湾茶壺は宜興のコピーというよりその意匠・土味などが潮州楓渓窯をルーツにしています。粗悪な宜興コピーも多くありますが,1980年以降「鶯歌」を中心に発展し,いまや台湾茶壺は宜興より茶道具ののテイストにあった存在となっており台湾芸術の一分野となっています。


台湾 呉政憲

台湾 阿銘師


■茶壺ブームと価格の高騰

 1980年以降台湾香港を中心に,再び工夫茶ブームが起こり,宜興茶壺の価格が高騰。台湾では全国的に宜興紫砂専門の販売店が林立。茶壺の専門雑誌なども発行される。現代作家ものや明清の古壺は,一時期考えられないような額まで高騰し,茶壺バブルとも呼べる状況。特に古壺は小さい朱泥。現代ものは故顧景舟先生のものに人気が集中しており,現在オークションなどで,氏の作品は,だいたい10万から30万人民元!! このころの台湾では,茶壺だけが盗難に遭うケースも多く,美術書や骨董品専門雑誌などに盗品案内が毎月のように掲載されたりします。
宜興紫砂工芸廠は若手中心の第5工場まで拡大。台湾資本の砂龍陶芸など工場も増える。




宜興現代作家もの 周桂珍


■茶壺ブームの凋落(精巧なコピー品と真壺の品質問題)
 茶壺ブームによって宜興に大量の注文がいくようになり,作れば売れるといった状況となると,必ずしもよいことばかりおこりません。

<精巧なコピー>
 ひとつは伝統的な?コピー問題ですl。これも今までのような一目で分かる贋作でなく,実に正確なコピーが大量に出現しています。

<作家たちのおごり>
 あわせて,大量の注文をこなすため自ら型出しで大量生産する作家や,内弟子やジュニア(子供)に作らせたものに自分の作者印を押すなどという,とんでもない真作?もあらわれ,作家本人から買っても真壺かどうか分からないというひどい状況も発生しています。そんなこんなでで現代宜興窯の信用は落ちるところまで落ちてしまい,高級な現代茶壺に手を出す人が激減します。

時を同じくして90年後半には第一工場が事実上の倒産。これは,改革解放制作の中で多くの国営企業がたどった道なのですが,完全に手工業である第一工場が高コストで倒産するのも世のながれかもしれません。コスト削減や合理化のため機械などをいれることで,さらにコレクター達からは敬遠されることになってしまいます。



参考
すべての宜興関連図書
特に
茶韻茗事 故宮茶話 国立故宮博物院
詩酒茶情 香港大学美術博物館
宜興紫砂陶 上海古籍出版社
蔵品 一盞茶心 第8巻
The Yixing Efect foreign language press
収蔵指南 紫砂 学林出版社
工夫茶と潮州朱泥壺 汕頭大学出版社

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