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景徳鎮
宜興が陶都と呼ばれているのに対し,景徳鎮は磁都と呼ばれています。昔は,昌南鎮と呼ばれていました。宋代の真宗皇帝の景徳年間に,宮廷に納める磁器を作らせ,底に景徳年ということで景徳と紀款をいれたため,その後景徳鎮とよばれるようになりました。
以降元・明・清代を通して宮廷ご用達の窯・官窯(かんよう)がおかれ,さらに,一般市場向けには民窯が,中国国内だけでなく日本やアジア・アフリカ・ヨーロッパまで輸出されていました。

 ■官窯
 景徳鎮市内の珠山というところに明・清時代の御器廠(官窯)がおかれました。


御器廠(再建され、現在は研究所)

潮田窯ものはら:景徳鎮の焼き物より


御器廠では,厳格な品質規定があり,規格通りの同じ意匠のものを、大量に生産していました。焼成後、合格品として北京まで持っていけるものかどうか厳しく判定し,少しでも品質基準に合わないものは,皆その場で壊してしまったといいます。
宮廷まで持っていくものは,何千個と焼いて,1〜2枚だったそうです。このため,ここの地面を掘ると延々何メートルも磁片がうまっているそうです。
現在は,発掘出土したものを,再生して研究を行っています。
(研究室は膨大なかけらをひとつづつジグゾーパズルのように組み合わせるという気の遠くなるような作業をここで行っています。
市内の磁器博物館も,元代,明代のものはほとんど出土品です。(完品はみな北京に持っていっていたためです)
 ■カオリン (高嶺) 白木子(ぺいとんつ)
 カオリンは,高嶺と書き,景徳鎮市から車で約1時間ほどのところにある山の名前です。紫砂が宜興の要であるように,カオリンは景徳鎮窯をささえる要です。高嶺山からとれた土は,長い間景徳鎮窯業を支えていました。いま広く磁土全般をカオリンと呼ぶほどです。
 残念ながら,現在はほとんどもう採掘し尽くされ,枯れてしまい,近くの九江などの土を使っています。


のどかな高嶺村の風景



採掘坑跡


採掘した高嶺土を洗った陶泥坑


 景徳鎮は,宋代には青白磁を作っていましたが,当時から白い磁土に恵まれていたのですが,元のころこの白土が枯れ,このカオリンを使うようになり景徳鎮の磁器は他の窯を圧倒します。

三宝鉱(白木子)
三宝鉱という場所で渓流にかけた水車で鉱石を砕き磁石粉をつくります。ここで産出される鉱石を于干といいます。これに高嶺、柳家湾の鉱石などをブレンドして磁粉にします。これを水簸して不純物を沈殿させてとり、上澄みを乾燥し白木子(ぺいとんつ)という胎土に仕上げます。
■完全分業体制 
 景徳鎮は元時代に官窯が設置されて以降、厳密な規格に基づいて一部の狂いもない製品を大量に生産していました。そのため民営、分社化した現代でも工程ごとに完全分業制で生産が行われています。磁土を生産するのは基本別会社。従って現在も一部作家ものを除いて、宜興のような落款は入りません。
また、当時の官窯では大清乾隆年製などという紀年款もその書き方が厳密に決まっていました。



磁土置き場 奥の色がついているのが白木子。手前の白が高嶺

高嶺と白木子をブレンドして菊練り

ろくろ引き

削りだし

高台部分の削りだし

専用のかんな

焼成前

絵付け

コバルト(呉須青料):景徳鎮の焼き物より

焼成

 高級品は今でも松の薪でまんじゅう窯で焼成します:景徳鎮の焼き物より
ガス窯では薪窯特有の橘皮感が出ません

色絵付け後、再度焼成して完成


 景徳鎮の多彩な顔
 


官窯
景徳鎮には元・明・清時代官窯が置かれ、皇帝のための焼き物が大量に作られていました。銀本位制が崩壊し、明王朝は他国との貿易は貢献という形態をとります。そのため、明王朝に訪れた近隣諸国の代表への下賜として景徳鎮の焼き物が使われました。当時磁器の完成度において圧倒的に技術優位性を誇っていた景徳鎮製品は同量の金や銀より価値を持つものでした。従って官窯は、宮廷で使われる焼き物以外に大量のニーズがあったのです。

スペシャル
 清朝中期宮廷で皇帝のために特別に作られていたスペシャルな焼き物があります。清朝雍正,乾隆ごろに製作され紫禁城内でもスペシャルな官窯として扱われました。雍正期に入ってきた琺瑯彩で絵付けした小皿などが中心で、景徳鎮官窯でもっとも洗練された白磁の皿を焼成し北京に納めます。これを紫禁城内の工房で選任の絵師が絵付けし、低温で焼き付け完成させます。


東京国立博物館


■民窯
 主として中国国内の需要に応じて大量生産された景徳鎮製品。景徳鎮官窯は不合格になったものを廃棄処分していたので、官窯が流出することはありません。青花でも物語紋など見ていて楽しいものがたくさんあります。



景徳鎮民窯:ギメ博物館


■オーダー品
景徳鎮を語るうえで、重要なのが清朝のピーク時世界中で最も技術レベルが高かった景徳鎮は、おそらくできないものがないレベルだったため、皇帝のスペシャルオーダ以外に、海外からのオーダでこれも全く味わいの違う焼き物を焼いていました。
有名なのはタイ王朝むけの、ベンジャロン。現在はタイ国内で作られているタイ王室向けの焼き物ですがこれは清朝期の景徳鎮に絵付け師を派遣して焼成したいたといわれます。これは、当然中国国内にはほとんど残っておらずタイのナショナルミュージアムに膨大なコレクションがあります。
その他、マレーシアあたりの華僑向けのスペシャルな焼き物や、日本向けの祥端などスペシャルオーダーは景徳鎮のもう一つの顔です。


タイ王朝向けのベンジャロン。景徳鎮の焼成



 ■景徳鎮の変遷
 景徳鎮は元時代に官窯がおかれるまで1地方窯でした。五大の頃からインチン(青白磁)を作っており、宋時代もインチンが主でした。


インチン


初期の官窯もインチンでした。官窯が設置されてから龍泉窯など各地の陶工が景徳鎮に集められ中国一の窯業の基盤ができます。
元時代に中東からのオーダで作られた青花の制作が開始されて、メインが青花に移行していきます。
一時海禁策などでコバルトが入手できなかったとき、銅を発色剤とした釉裏紅を製作したりしました。青料と銅を使った青花釉裏紅などもあります。


釉裏紅:台北故宮博物院



明時代に、青花の上に染料で色をつけた五彩、闘彩が登場します。明万歴の赤絵は日本人にも愛されてきました。
その間、皇帝の命により五大古窯の倣古も作られます。特に明時代に汝窯や南宋官窯の再現を行っています。また緑釉や黄釉も現れます。


五彩チキンカップ:台北故宮博物院


大きな革新は、清雍正帝の時代にヨーロッパから色ガラスを原料とした琺瑯の技術が出来、器の絵付けは圧倒的に進歩します。


黄釉:台北故宮博物院


その後は様々な釉薬が開発され、乾隆時代には作れないものはないという技術レベルに達し、ヨーロッパや中東の王侯貴族が争うように景徳鎮の焼き物をほしがったのです。特に、乾隆時代の倣汝窯、倣南宋官窯は原件に肉薄するすばらしい出来です。


倣官窯:台北故宮博物院


福建、広東、日本、韓国などがその技術を継承し、青花などの焼き物を作ってきました。

現代の景徳鎮は倣古と、現代作家の作品を核に、コーヒーカップなどの量産品を大量に国内外に送り出しています。
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