徳化窯博物館
 ■ 青花(福建青花と日本煎茶文化)  
   
青花とは,日本でいう染め付けのことで,白磁胎にコバルト顔料で絵を付け,ガラスの透明釉を書けた磁器を指します。青花は,元時代の景徳鎮が有名ですが,最近の中国学会では,唐の時代に,浙江省で青花のぐい飲みが出土していたり,南宋官窯では,高台に染め付けで年紀款などを入れたりしています。しかしながら,元の景徳鎮との間には相当の溝があり,唐・宋の発展系が景徳鎮の染め付けとは言えない様です。

釉下彩では,磁州窯などですでに展開されており,景徳鎮では青白磁というきわめて良質な白磁が生産されていました。ここに,ソマリ青とよばれる西域からのコバルト原料(日本では呉須,中国では青料)がもたらされたことが元の染め付けが世に出てくる主要な要因かと思われます。景徳鎮青花については,以前にふれていますのでこのさい置いておいて,今回は,景徳鎮以外の窯業地での青花について触れてみたいと思います
青花の流れ

上図は,青花を製造していた主立った場所と日本への伝来を指しています。そもそも青花は唐や宋時代から遺物が発見されていますが,元代では景徳鎮以外にも雲南地域,浙江省で青花が本格的に生産されていました。明清の時代には,上図以外の地方でも製造されていたと思われます。青花イコール景徳鎮というのは,芸術性などからは正しいのですが,博物館以外では景徳鎮以外で製作された青花のほうが実は我々は目にしているということは意外に知られていません。これは現在でも同じことです。特に中国茶,煎茶関係の青花はその大部分が福建省あたりのものです。
そもそも青花は元時代ペルシャ(現トルコあたり)からのオーダー品で,元王朝では下手としてあまり重要視されていなかったというのが通説となっています。官窯として宮廷に入ったのは明時代以降であろうと言われています。ただ,当初から国内流通も意識していたという説も最近ではよく聞かれます。

ここでは,景徳鎮の青花についてはあまりふれません。今回は民窯しかも日本と深いつながりがある福建省青花を中心に仮説も含めご紹介したいと思います。

福建省,潮州あたりは海のシルクロードの出発点として,また華僑のルーツとして,瓷器をアジア日本ヨーロッパなどへ出荷していた場所で,元末明所の政治的混乱と,明朝の海禁(鎖国)政策により,本来輸出仕様であるコバルトを使った景徳鎮青花の大量オーダーなどで景徳鎮官窯に比してかなり下手なコピーを製作して貿易を始めたのは当時かなり貧しかった地域としては当然の始まりだろうと思います。

海岸地区だけでなく中国各地で青花は生産されていました。今回はこのあたりもすこしふれてみたいと思います。
■ 青花磁器制作のための三大要件
 青花を製造するためには,@充分な青料(コバルト)が得られること。A焼成のインフラ(薪,窯,河川(運搬用),土)があること。B絵付け師などの工芸技術インフラがそろっていること,などがあげられます。

逆に言えば,これらの要件がそろえば,景徳鎮以外にも青花窯は成り立つわけで,高価な景徳鎮窯をカバーするため,各地で青花窯が開花していたのは,当然であると言えます。アジア特にベトナム・タイの青花には雲南省の技術が重要な影響を与えています。

日本の青花は景徳鎮以外が主
 瓷器を積んで日本に向かう途中大沈んだ韓国新安沈舟から,大量の龍泉窯青磁が出ましたが青花が一つも発見されていないことから,日本ではあまり青花は好まれていなかったようです。
日本に本格的に青花が入ってきたのは江戸中期から末期にかけての煎茶ブームの際,宜興茶壺と併せて工夫茶用の小さい青花碗がこの福建あたりからおかゆを炊くボーフラや涼炉などとともに日本に入ってきて定着したと考えています。

 問題は煎茶の本ではこれら煎茶用の青花茶碗を古染付といって,明末天啓期の民窯という説明が多かったのですが,最近の中国でフィールド調査が進んでくるにつけ,日本で景徳鎮古染付けと言われていた煎茶碗のほとんどは福建省で作られていたものであるとわかってきました。白磁で有名な徳化窯や呉須手のシ章州平和窯で,ナズナ手など日本で煎茶碗として普通に使われているものの残片が発見されてきて,もはや疑問の余地がないと思われます。シ章州窯については日本でも最近話題になっていますが,シ章州窯のなかでも平和県一帯で生産されていたため平和窯とか,呉須手に関してはさらに場所が特定できているのでその場所から五賽窯などともいわれています。
特に景徳鎮成化窯の年紀款の入っているものは本歌の優雅さは,煎茶碗にはなく,古拙な素朴さが現れています。また,砂高台は若干景徳鎮でもみられますが鶏心底や玉壁底(日本でいう蛇の目高台)の茶杯も景徳鎮明末民窯とするのは無理があり,逆にこれらの標本も福建省で出土しています。

日本の京焼きなどが行っている古染付写しは,正確には福建省写しということになるわけです。

景徳鎮 成化窯

福建平和窯 茶杯
従来天啓古染付と言われていたもの
福建以外の青花
■ 雲南窯
 雲南省には玉渓窯はじめ東南アジアに多大な影響を及ぼし,安南(越南),タイなどに技術移転された青花として重要な窯があります。景徳鎮以外の青花ではベトナム安南窯が日本では有名ですが,その技術は,ダイレクトに景徳鎮から移転されたわけではなく,雲南窯経由だと言われています。雲南窯は景徳鎮と同じかより早く青花を生産していました。理由は当時アフリカなどから輸入されていた回青というコバルトが雲南経由で輸入されていたこと。加えて雲南地区自体に珠明料というオリジナルのコバルトも生産されていたこと。また安南との関係では物理的にベトナム(越南)に近く,技術交流が盛んだったことなどがあげられます。

雲南の珠明料は,明清の時代には景徳鎮でも使われたコバルトです。雲南窯としては,玉渓窯,建水窯,禄豊窯など各地で窯跡が発見されています。雲南青花の特徴としては,@鈷藍地白花磁A印貼青花花磁B印花青花磁C付加帯状花葉辺紋青花磁器D青釉青花E堆塑套圧印紋青花磁器などがあげられます。中心となった玉渓青花の特徴としては,胎土が灰色であること。器の内部は,焼成時の裂痕がある。ろくろ作りである。ろくろ目を補正しているなどの特徴があります。焼成自体は景徳鎮の技術を使っているようですが,最大の違いは,土が粗黄で,釉色も青く,土黄色であること。このため青釉青花といわれています。
■朝鮮窯
 中国の隣国として,11世紀には中国青磁のコピーを作っていました。青花は,15世紀李氏朝鮮の時代,中国製のコバルトを使用して高価であったため,絵付けが極端に少ないのが特徴です。1464年順天府でコバルトが産出し,1469年康津官窯の場所でも呉須が発見されました。この朝鮮の青花技術は李三平によって有田へと技術移転がなされ,現在の伊万里のベースとなっています。ここから日本の各地で青花が焼成されるようになりました。
■ 安南青花(ベトナム)
ハノイ付近で李朝(1009―1225),陳朝(1225−1400)1465年に北寧で中国時期のコピーを雲南の技術を使って始めました。大和八年の年紀が入っているベトナム製の天球瓶は,トプカピ宮殿にも残っています。ただ,文様自体は,景徳鎮のコピーが多く,雲南窯の影響だけでなく景徳鎮の技術もTTされていたことになります。

雲南省 玉渓窯青花(白磁部分は出土のため変色)


平和窯出土の煎茶碗標本

徳化窯出土の煎茶碗標本

ベトナム青花


韓国新安沖で発見された日本向け陶磁を
積んだ沈舟

景徳鎮(香港芸術館)
福建青花
■  福建省は海に面しており,今も昔も貿易港としての利便性があったことから海のシルクロードの出発点となっていました。アジア,ヨーロッパ,イスラム圏からの大量のオーダーに答えるため,シ章州窯や徳化窯をは輸出をねらった焼き物が生産されたようです。福建省は今でもローレベル中国陶瓷の一大生産地域であります。おそらくローレベルの焼き物の生産量は景徳鎮と同規模か,しのぐのではないかと思われます。台湾製と思われていた現代工夫茶用の茶碗,欧米でおみやげ物として売られている各種彩色陶器などはほとんど徳化窯産です。

福建シ章州窯は以前日本では,呉須手,ヨーロッパではクラーク磁とか汕頭手とか呼ばれておりトルコのトプカピ美術館にも収蔵されています。福建省の陶磁器の最大の釜である徳化窯は,日本ではマリア観音としてやヨーロッパではチャイナホワイトとして白磁の窯と認識されていますが,徳化窯には青花や五彩瓷器を大量に生産しており,数百の窯業地が確認されています。

徳化窯の青花は非常にレベルが高く,テイストもシ章州平和窯とは違ってかなり上手のものがたくさん伝世されています。注目すべきは,かつて日本において「唐物」(からもの)とよばれた茶道具,鑑賞陶磁器群は,そのほとんどが福建省窯業地帯からのものであるということです。「古染め付け」と呼ばれ景徳鎮天啓民窯とされていた煎茶用の小さな茶杯については上で述べたとおりですが,付随する煎茶のボーフラ,涼炉も福建省産。

建窯の天目茶碗は福建磁として有名ですが,抹茶で使われる「交跡の香合」はシ章州窯,唐物茶入れ(棗),珠光青磁はシ章州南窯であったということが最近の現地調査などで収集された残片から証明されています。



現在の徳化(よく見かける中国茶杯)

同じく現在の徳化産茶具
■福建省青花
 福建省は,宋代には黒釉(建窯など)明代には白釉(中国白)と呼ばれ,天目茶碗は,建窯のもの。抹茶の棗などで唐物茶入れなどとなっているのもほとんどはこの福建省あたりのものと思われます。ついでにいえば,珠光青磁も出土した残器からみるとこのあたりの龍泉窯写しの下手であったと思われます。(中国ではこの手の下手青磁もシ章州窯とカテゴライズされています)青花も徳化,永春,安渓,平和(シ章州)、華安,南靖,シ章浦など各地でその窯数は無数にあったと言います。現在も発掘は続いており正確な数はわかりません。特に徳化窯群については,日本では白磁しか生産していないという印象がありますが,徳化は白磁よりも青花を大量に作っていました。福建青花の特徴は,青料(呉須)に国産の浙青か,金門青を使っていること。後期には洋青もつかわれており,線描と塗りのだみをつける部分を使い分けたりしています。徳化窯は白磁胎ですが,平和窯などは白色の化粧土を使っているものもあり,不透な感じがあります。


一般的に焼き物の物流路は海のシルクロードを使いました。その発点は,泉州,シ章州,汕頭などの港です。当然日本にもこのルートを使って大量の磁器がもたらされました。日本で茶道具と呼ばれているもののほとんどはこのルートで福建省産のものが入ってきたと推定されます。景徳鎮官窯の一部の隙もないようなものは,日本ではほとんど伝世品が無く清朝崩壊の際に流出したものが多いこと。韓国新安沖沈船から出水したものにも青磁は大量にあっても,青花が一つもなかったことなどから,青花はあまり日本では好まれず,煎茶碗だけが福建省から急須(小降りの孟臣壺)や,ボーフラ,涼炉などとともにわたってきたと思われます。ついでに,日本で交跡と呼ばれている茶道具も平和窯で作られていたことがわかっています。赤玉香合なども同じです。




タイの工夫茶セットにしつらえられた徳化窯

現在も福建省で売られているボーフラ

中国古陶磁研究No13(紫禁城出版社),シ章州窯(福建人民出版社),徳化青花五彩青磁全書(福建美術出版社),徳化民窯青花(文物出版社)等を参考にさせて頂きました。