結婚式

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プラナカン ニョニャウエア(陶磁器)

プラナカンウエアは彼らの使っていた陶磁器のうち、食器で19世紀末から民国初期にオーダーメイドで作られた中国製の極めて上手な粉彩磁器で、主として婚礼用のテーブルウエア・ディナーセットを指します。線香立てやバシンと呼ばれる洗面器・石鹸入れなどはあるものの、花入や神仏像、その他の磁器製品は含まれません。ニョニャウエアとも呼ばれます。プラナカンでも花入や日常食器は青花(おそらくは徳化窯)をシャンハイウエアとして使っており、茶器には宜興を、ほかのマレー文化同様大甕はマルタバンを使っていました。極彩色の粉彩磁器は清宮同様、婚礼用の道具として極めて重要なものであったといえます。プラナカン適齢期の女性は纏足はしなかったものの、基本外出せず、日がな厨房で料理や刺繍などの嫁入り修行をしました。

婚礼はどれだけ重要であったかが分かります。結婚は親同士が決め、嫁ぎ先から仲介人を通して要求され、嫁ぐ側で嫁入り調度が準備されます。大陸本土でも同様のディナーセットを始め婚礼道具を準備する習慣があったのでしょうが、文革を経た後の今となっては当時のものはほぼ残っていません。

プラナカンウエアがニョニャウエアとよばれるのもニョニャのための嫁入り道具であったからです。

さてニョニャウエアですがこのような背景ですから幾つかの特徴があります。

まずニョニャウエアは婚礼道具のひとつであり、披露宴に使われるものであったため基本ディナーセットであること。清朝時期の南方の結婚式は輿入れ後先祖に参ってから両親や参加者にお茶を振る舞うというのが普通のセレモニーであったため、これに茶道具が加わり茶道具+ディナーセットでニョニャウエア形成されています。その他一般的な文房具・飾り物・花入などは厳密にはニョニャウエアに厳密な意味では含まれません。ただし実際には化粧品入れ・花入・香炉・石鹸入れ、後期にはコーヒー用具なども同一デザインのセットとして存在しているのでテーブルウエアだけとも言えませんが、基本は茶道具と食器です。茶道具も福建・広東がルーツであるため工夫茶仕様の小さな急須です。磁器のものが一般的ですが、さらに高級なオーダーとして宜興も使われていました。ただし婚礼用には琺瑯で朱泥の上に全加彩したものを準備したようです。激レアアイテムです。

二つ目はそのカラーリング。色彩です。ニョニャウエアは、すべて目をみはるほどカラフルなパステルカラーの粉彩磁器セットであったことです。赤道直下の強い日差しに負けないためかのような極めてポップな色彩で、これらが全て同一の色調でセットとなるため、テーブルの上にまるで花畑が登場したかのような雰囲気を醸し出します。ローズピンク・ターコイズグリーンなどの花々は祝宴をきっと盛り上げたことでしょう。

清朝同治以降の民窯は粉彩の技術も非常に高度なものになっていました。ニョニャウエアはその最高峰のものが使われており、清末官窯のチープさ見え見えのものよりずっと品質の高いものも少なくありません。パステルカラーの黄色とピンクと緑を使うという配色の新しさ、それでいて妙に統一感のある仕上がりが、コレクターたちを惹きつけていると思います。

三つ目は婚礼の用途であったためデザインのほとどんどが、フェニックスとピオニーをメインに七宝・八宝などの吉祥文様を飾り付けたものであったことです。色味は実にカラフルで斬新的であったのに文様デザインについては、伝統的な昔ながらの吉祥文であるということも特徴です。同時期同じように中国にオーダーメイドしていたタイのベンジャロンはタイ王室の官窯だったこともあり、インド・ヒンドゥーの神々のデザインだったり伝統的なタイの花柄だったりした規格品であったのに対して、中国古来の意匠を使い続け色合いだけをカラフルにしたことがかえって、アンディウォーホルなみのポップな新しさとなっています。

世界遺産

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初期のニョニャウエアはいわば中国からのプッシュ型とでもいう仕込み品の粉彩磁器で、量産品でした。陶器店で売られていた高級食器からハイエンドのものを婚礼用に準備したとおもわれます。初期ニョニャウエアとほぼ同様のものがタイの国立博物館にも収蔵されていることからもうかがい知れます。その後ペルナカン側からデザインを指定したプル型のオーダーメイド磁器としてその唯一無二のテイストのニョニャウエアを形成しました。その鮮やかな南国らしい派手な意匠を最高の中国の粉彩技術で実現したのです。官窯の琺瑯彩が極彩色ながらもどこか荘厳な重さがあるのに対し、実に明るいポップな感覚の作でした。これはニョニャの刺繍にも見られる独特の色使いからきたものと思われます。ニョニャ刺繍はガラスビーズで作られていましたので、刺繍のデザインパターンをやはりガラスの釉を使った粉彩磁器としてオーダーしたと思われます。

これらニョニャウエアは日常食器としては使われませんでした。通常はシャンハイウエアとよばれる、徳化窯系のブルーアンドホワイトの物を使用していました。ニョニャウエアは、婚礼以降は春節・誕生日など特別な日だけに使われていました。

中国色絵磁器

そもそも粉彩はヨーロッパからもたらされた技術で、清朝康熙乾隆あたりから採用されたハイテク技術でした。白磁の上に色ガラスをベースのくすりで彩色し二度焼きしたもので、最初は景徳鎮から調達した白磁に清宮内の造弁所で専門の画家によって絵付けされ琺瑯彩として確立したものです。

中国色絵の歴史は古くからあり、磁州窯では宋時代に色絵が作られています。

元になり釉の下にコバルトで文様が描かれた青花が生まれました。明時代には単色の素晴らしい一群もあります。その後、青花のコバルトの青をベースにベンガラや銅をベースの辰砂、硫酸銅ベースのタンパンなどで彩色した五彩、闘彩など独特の名品が生まれています。明時代には福建省漳州で日本で呉須と呼ばれる色絵が海外で評判となりました。

ヨーロッパからもたらされた琺瑯の技術は、色ガラスベースのくすりで、ほとんどすべての色が焼成前にWYSIWYGで見たまま絵付けできるもので、色絵の主流になりました。康熙、乾隆時代に粉彩で青自体と黒、金が発色できるようになり、染付青花をベースに使わなくても良くなり、結果自由度が増し、ヨーロッパの油絵的な絵付け(洋彩)や貴族の紋章などのオーダーに対応できるようになりました。日本では華美に過ぎるとあまり受け入れられませんでしたが、輸出有田などでも生産され、後に柿右衛門様式などのちょっと抑えた色調の色絵として定着しました。ニョニャウエアはまさにその対極ともいうべき色調のものでした。