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写真をご覧ください。鮮やかな色彩のディナーセットです。このような鮮やかなセットを今まで見た記憶が有りません。また、極彩色のティーセットも初めて見る方も多いと思います。

中国陶磁なのですが、宮廷磁器でもありません。官窯の品格は持ち合わせていません。

これらはマレーシア、シンガポールあたりの華人達が愛用していたプラナカン磁器というものです。

ここ数年プラナカンと呼ばれる文化のことに興味があり調べています。

中国で南洋と呼ばれるマレー半島近辺のマラッカ・ペナン・シンガポールにプラナカンと呼ばれる文化がいまでも存在します。南洋といえば、付近のタイやフィリピンなどにも華人のコミュニティは沢山ありますが、その中でもプラナカンは他とは異なった独自の文化を形成しています。

日本人には華僑という言い方がよく使われますが、華僑というのは中国に本籍があって海外で暮らす人々を指し、華人とは現地化した中国人を指します。プラナカンは華人です。

プラナカンは中国語で海峡華人といい、15世紀から17世紀に福建省・潮州・広東からマレー半島とインドネシアに移り住んできた華人の子孫たちを指します。彼らは母国語の福建・潮州語だけでなく英語やポルトガル語など多国語をあやつり、貿易やゴムのプランテーション、特産品である錫鉱山の採掘などで財をなした人たちでした。彼らを海峡華人(straits chinese)とあえて呼ぶのは、後世に苦力など単純労働力として入ってきた華人と区別するために使われる言葉です。

華人の子孫ではあるものの、当時の中国は19世紀まで、女性の海外移住を認めていなかったため、ごく初期はマレー人とのハイブリッドであったと思われます。しかし一貫してイスラム教は受け入れず、中国文化を守っていました。彼らの子孫をプラナカンと呼びます。

また現地語の影響で女性をNyonya 男性はBabaとも言います。

子孫たちの多くは英国式教育を受け、現地駐在の英国人たちとのパーティなどの付き合いを通じて中国文化の中に英国などのヨーロッパ文化を取り入れてハイブリッド化していきました。現存している現地のプラナカン居住地はほとんど世界遺産となっており、住居跡は博物館として開放されているところも少なくありません。そんな、当時の住居を見学すると、実に見事に中華文化に英国のテイストを組み込んで行ったことがわかります。

プラナカン文化は清朝中期から民国にかけて絶頂期をむかえます。しかしながら時代を重ねるにつれ、テレビ蓄音機、ラジオなどヨーロッパ製品の流入とテニスやコーヒーなどヨーロッパの価値観に重みを置くようになり、弁髪はせずスーツをまとい、伝統的な中国のもの=旧時代のものという色は薄くなっていきます。中国の伝統やしきたりを捨てることはなかったものの、調度や生活用品は西洋化していくようになり、日本が侵攻した大戦前にはすでにプラナカン特有の調度や陶磁器などは処分され、洋風のものに置き換えられていたようです。日本軍の侵攻で彼らはオーストラリアなどに避難し、栄光のプラナカン文化はほぼ消滅という事態になります。

戦後このような事態に危機感を持った一部識者が処分されていたプラナカン文物を収集、保存を始めました。このような活動があってプラナカンのコミュニティは世界遺産に指定されて保存・維持されています。

文化遺産だけでなく現代のペルナカンの子孫たちは現在でも様々な交流があり、基本ペルナカン同士で婚姻し、家系は明確で、会報やパーティなど交友が今でも盛んです。

プラナカンの文化はとはなんだったのでしょうか。これらは多岐にわたり、マレー語を取り込んだ福建語ベースの独自言語、福建などによくあったテラスハウス形式に、ヨーロッパ趣味を取り入れた中洋折衷住居、広東様式の石湾様式の屋根飾り、重厚な中国調度、ビーズ刺繍、宝石、ガラス製品、ほぼイスラム圏ながら各種ハーブと豚も使った独特のニョニャ料理などに及びます。こういった生活様式をプラナカン文化としています。また我々コレクターが食指を伸ばすアイテムとしては、刺繍、宝石、銀製品、そして陶磁器です。

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結婚式

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プラナカン ニョニャウエア(陶磁器)

プラナカンウエアは彼らの使っていた陶磁器のうち、食器で19世紀末から民国初期にオーダーメイドで作られた中国製の極めて上手な粉彩磁器で、主として婚礼用のテーブルウエア・ディナーセットを指します。線香立てやバシンと呼ばれる洗面器・石鹸入れなどはあるものの、花入や神仏像、その他の磁器製品は含まれません。ニョニャウエアとも呼ばれます。プラナカンでも花入や日常食器は青花(おそらくは徳化窯)をシャンハイウエアとして使っており、茶器には宜興を、ほかのマレー文化同様大甕はマルタバンを使っていました。極彩色の粉彩磁器は清宮同様、婚礼用の道具として極めて重要なものであったといえます。プラナカン適齢期の女性は纏足はしなかったものの、基本外出せず、日がな厨房で料理や刺繍などの嫁入り修行をしました。

婚礼はどれだけ重要であったかが分かります。結婚は親同士が決め、嫁ぎ先から仲介人を通して要求され、嫁ぐ側で嫁入り調度が準備されます。大陸本土でも同様のディナーセットを始め婚礼道具を準備する習慣があったのでしょうが、文革を経た後の今となっては当時のものはほぼ残っていません。

プラナカンウエアがニョニャウエアとよばれるのもニョニャのための嫁入り道具であったからです。

さてニョニャウエアですがこのような背景ですから幾つかの特徴があります。

まずニョニャウエアは婚礼道具のひとつであり、披露宴に使われるものであったため基本ディナーセットであること。清朝時期の南方の結婚式は輿入れ後先祖に参ってから両親や参加者にお茶を振る舞うというのが普通のセレモニーであったため、これに茶道具が加わり茶道具+ディナーセットでニョニャウエア形成されています。その他一般的な文房具・飾り物・花入などは厳密にはニョニャウエアに厳密な意味では含まれません。ただし実際には化粧品入れ・花入・香炉・石鹸入れ、後期にはコーヒー用具なども同一デザインのセットとして存在しているのでテーブルウエアだけとも言えませんが、基本は茶道具と食器です。茶道具も福建・広東がルーツであるため工夫茶仕様の小さな急須です。磁器のものが一般的ですが、さらに高級なオーダーとして宜興も使われていました。ただし婚礼用には琺瑯で朱泥の上に全加彩したものを準備したようです。激レアアイテムです。

二つ目はそのカラーリング。色彩です。ニョニャウエアは、すべて目をみはるほどカラフルなパステルカラーの粉彩磁器セットであったことです。赤道直下の強い日差しに負けないためかのような極めてポップな色彩で、これらが全て同一の色調でセットとなるため、テーブルの上にまるで花畑が登場したかのような雰囲気を醸し出します。ローズピンク・ターコイズグリーンなどの花々は祝宴をきっと盛り上げたことでしょう。

清朝同治以降の民窯は粉彩の技術も非常に高度なものになっていました。ニョニャウエアはその最高峰のものが使われており、清末官窯のチープさ見え見えのものよりずっと品質の高いものも少なくありません。パステルカラーの黄色とピンクと緑を使うという配色の新しさ、それでいて妙に統一感のある仕上がりが、コレクターたちを惹きつけていると思います。

三つ目は婚礼の用途であったためデザインのほとどんどが、フェニックスとピオニーをメインに七宝・八宝などの吉祥文様を飾り付けたものであったことです。色味は実にカラフルで斬新的であったのに文様デザインについては、伝統的な昔ながらの吉祥文であるということも特徴です。同時期同じように中国にオーダーメイドしていたタイのベンジャロンはタイ王室の官窯だったこともあり、インド・ヒンドゥーの神々のデザインだったり伝統的なタイの花柄だったりした規格品であったのに対して、中国古来の意匠を使い続け色合いだけをカラフルにしたことがかえって、アンディウォーホルなみのポップな新しさとなっています。

世界遺産

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初期のニョニャウエアはいわば中国からのプッシュ型とでもいう仕込み品の粉彩磁器で、量産品でした。陶器店で売られていた高級食器からハイエンドのものを婚礼用に準備したとおもわれます。初期ニョニャウエアとほぼ同様のものがタイの国立博物館にも収蔵されていることからもうかがい知れます。その後ペルナカン側からデザインを指定したプル型のオーダーメイド磁器としてその唯一無二のテイストのニョニャウエアを形成しました。その鮮やかな南国らしい派手な意匠を最高の中国の粉彩技術で実現したのです。官窯の琺瑯彩が極彩色ながらもどこか荘厳な重さがあるのに対し、実に明るいポップな感覚の作でした。これはニョニャの刺繍にも見られる独特の色使いからきたものと思われます。ニョニャ刺繍はガラスビーズで作られていましたので、刺繍のデザインパターンをやはりガラスの釉を使った粉彩磁器としてオーダーしたと思われます。

これらニョニャウエアは日常食器としては使われませんでした。通常はシャンハイウエアとよばれる、徳化窯系のブルーアンドホワイトの物を使用していました。ニョニャウエアは、婚礼以降は春節・誕生日など特別な日だけに使われていました。

中国色絵磁器

そもそも粉彩はヨーロッパからもたらされた技術で、清朝康熙乾隆あたりから採用されたハイテク技術でした。白磁の上に色ガラスをベースのくすりで彩色し二度焼きしたもので、最初は景徳鎮から調達した白磁に清宮内の造弁所で専門の画家によって絵付けされ琺瑯彩として確立したものです。

中国色絵の歴史は古くからあり、磁州窯では宋時代に色絵が作られています。

元になり釉の下にコバルトで文様が描かれた青花が生まれました。明時代には単色の素晴らしい一群もあります。その後、青花のコバルトの青をベースにベンガラや銅をベースの辰砂、硫酸銅ベースのタンパンなどで彩色した五彩、闘彩など独特の名品が生まれています。明時代には福建省漳州で日本で呉須と呼ばれる色絵が海外で評判となりました。

ヨーロッパからもたらされた琺瑯の技術は、色ガラスベースのくすりで、ほとんどすべての色が焼成前にWYSIWYGで見たまま絵付けできるもので、色絵の主流になりました。康熙、乾隆時代に粉彩で青自体と黒、金が発色できるようになり、染付青花をベースに使わなくても良くなり、結果自由度が増し、ヨーロッパの油絵的な絵付け(洋彩)や貴族の紋章などのオーダーに対応できるようになりました。日本では華美に過ぎるとあまり受け入れられませんでしたが、輸出有田などでも生産され、後に柿右衛門様式などのちょっと抑えた色調の色絵として定着しました。ニョニャウエアはまさにその対極ともいうべき色調のものでした。

 

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