宜興紫砂工芸厰(老一廠) その7

宜興采鉱公司
1955年7月に宜興采鉱公司が設立されました。(宜興県工業志)11月に黄龍山鉱区15箇所に鉱口を設置,1956年4月黄龍山鉱場で夹泥,紫砂泥の採掘が開始されます。
黄龙山には通算して1から5号までの鉱口がありました。

(当時の坑道:インターネットから)

 

一号鉱は最盛期2万トンの産量を誇っていたが,1965年に閉山,
二号鉱は最盛期3万トンの産量であったが,八十年代初めに閉じた。
三号鉱は1万トンの産量であったものの七十年代中期閉山
1972年 2.58万元の国家予算を投じ黄龍山4号鉱を開発。地下36メートル,7メートルの鉱脈であった,四号鉱での採掘開始。年間5万トンの産量を誇った。1987年には7万トンまで達した。内訳は紫泥2671トン绿泥9トン。
しかしながら永年の乱獲により、  坑道は地下400メートルに達し,1997年10月 4号鉱も諸経費その他の要因により閉山。
1979年五号鉱での採掘開始。8月黄龍山5号鉱で夹泥と紫砂泥を採掘,ハンドドリルで粉砕してからトロッコで運搬する方式であったようです。年間2~3万トン。1984年10月5万元の予算を投じ,湿式ハンドドリルを導入。相次ぐ落盤などでエレベーターによる入鉱となります。
1987年 5000トンもの産量不足となり、1999年には地下水の流入を抑えられず黄龍山は全て閉山となりました。

(水没した黄龍山採掘場:インターネットから)

 

 

これ以降各所で試掘を行うも良質な鉱脈に当たらず、鉱脈が同じということで現在は浙江省の土を使い、様々な金属化合物を混ぜて原料としています。

宜興紫砂工芸厰(老一廠) その6

1958年 宜興紫砂工芸一廠


大躍進が始まった頃,江蘇省陶瓷研究所を設立。さらに蜀山陶業生産合作社をベースに,宜興合新陶瓷廠。上袁,潜洛の28個人業を集めて“宜興紫砂工芸廠(合作社)”を設立しました。従業員2067人。その目的は大量生産であったため伝統的なタタラ作りでなく、型を使った生産方式を採用しました。それでもエンジニアや指導者の不足は深刻なものであったためリーダー二人に10—15人の班で構成された“躍進班”とよぶ小集団方式で生産しました。“紅旗班”。“永勝班。“芸泉班”などと呼ばれていました。

紫砂中学を創業するとともに優秀な人材を選び中央工芸美術学院,南京芸術学院に派遣もしました。1958年から1959年にかけて周桂珍,潘持平,何道洪,呂尭臣,譚泉海,鮑志強,毛国強,沈漢生,周尊厳らが派遣されました。

1958年頃はすべての製品が“合作社壺”と呼ばれ,1966-1976年は”文革壺”と呼ばれたため,純粋な一廠壺と呼ばれるものは1977-1997年を指します。

“一廠壺”は潤沢な4号鉱の最良の紫砂泥料を使っています。一廠壺の原料はすべて自然風化させた紫砂原鉱腐土でした。
加えてまた一廠の重油トンネル窯は極めて優秀でした。紫砂廠の泥料を外部で焼いたところ,水色(水を帯びたような透明感)が出ず、乾燥した全く劣った上がりとなったそうです。
また小集団で製作を行った型出しでありながらリーダーたちによる補型がなされたため品質も悪くありません。
重油窯の環境的観点からの使用禁止。黄龍山の紫砂泥の採掘不能、大師級クラスの工場個室での製作から次第に自宅工房による個人営業の拡大など諸要因により1997年に事実上の終焉をむかえるまで39年の歴史があり数々の名品を生み出しました。

宜興紫砂工芸厰は一廠から五厰まで作られましたが、工芸美術師クラス以上の職称の作家はが皆自宅に工房を構え個人営業となり工場壺は価値のないものになっていきました。